露地裏骨董。 気になる商品がございましたら、「商品の問い合わせ」欄からご連絡ください。詳細説明、追加写真などをお送りします。 国分寺市本町2-25-15 ℡ 090-1400-7141 12:00〜20:00(日曜13:00〜19:00)
家にもいたよ、3㎝のうさぎが。 フタのない醤油差しや欠けの薬品ビンの間に…。
年が明けてから怒りのブログ書くのイヤだから、今のうちに、ちょこっとムカムカを晴らさせていただきますわね。
業者さんたちの間で、私のダンナはとてもいい人だ、という噂がたっている。
(先日の飲み会でも言われた。 「だんなさん、いい人なんですねー。」)
…あのね、私はダンナの話をしたことがないし、誰も会ったことないんだよ。
私だけを日頃見ていてね、「だんなさんがいい人なんだ」 って、なんか失礼だと思わない?
私が店も骨董市もフルに働いてるから、っていうんなら、完全に女性蔑視だと思う。
(「文句もいわずに、いい人だ」 って言ってた。 私が、文句を言わせないようにやってきたとは思わないわけね。)
言ってもしょうのないことだから、今まで親しい友達にも言わなかったけど、早朝の中高生の子供達のお弁当作りに始まり、店を閉めて帰宅してからの夕食作り、深夜近くなってからのダンナの夕食作り(全く別メニュー)、骨董市の前の夜は作り置き出来るものを、と、食事に関しては手を抜かないできたし、ダンナの帰宅より先に寝てたこともない。 (それは、我慢してつくしてる、というんじゃなくて、やっぱり焼きたてのさんまとか食べてほしかったし、起きていたのは、録画してあげてた最後のニュースを一緒に見て会話したかったから、というだけです。)
遠くに住む母の一人暮らしがおぼつかなくなってきた頃は、開店前の朝から午前中を使って、片道1時間以上かけて通った。
で、店はともかく毎日開けた。
どんなにきつい日常でも、店や骨董市では何食わぬ顔をしてたけど、それは当たり前のことです。
たぶん、みんながやってることです。
仕入れ過剰体質の、私の金使いを見てそう思うのなら(金額は全然たいしたことないけど)、言わせてもらいますけど、店の開店資金も、毎日の仕入れも、家のお金を使ったことは一円もありません。
(ちなみに昔の喫茶店も、開店時、誰の資金援助も受けませんでした。 いばることでもないけど、あらぬ噂もあったので。)
家と店のお財布はまったく別です。 私の個人的な仕事だからね。
何でこんな言い訳しなきゃならないんだー、って思うけど、なんか勘違いされてるなと思って…。
私の人格を見て、「いいダンナだ」というのなら、それは致し方ありません、ですねえ。
たとえ、私たちと違うかたちの夫婦がいたとしてもですね、関係ないんだからほっとけば?
おお、すっきりした。
では、よいお年を!
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いきなり年配のお客様に、「昔はボロ市は、あんたの店みたいにわけわかんない古いモノを売ってるもんだったよ。 最近はきれいな店ばかりになっちゃってねー。」 とへんなほめられ方をする。(ほめられたのかな?)
一年で一番きつい出店が終わって、ほっとしました。
来ていただいたお客様、お買い上げいただいたお客様、ありがとうございました。
差し入れ、陣中見舞いのヒロカ、ナナコちゃん、ありがとう。
搬入、搬出、店番の手伝いと、片腕になって働いてくれたりょうくん、ありがとう。
「あれが気になって。」 と二日目も来てくださった方もいらして、心がほかほかと暖かくなりました。
隣の店の口上売りのお兄さんは、口上のアドリブが上手なので聞いてるとついウトウトしてしまい、「寝たらだめですよー!寝たら死んじゃいますよー!」 とすかさずアドリブをいれる。
欠けのあるホーローケトルを覗きこんで、「こんなの売れるんですかー?」 といったり、「おお、売れたー!」 とビックリしたり、かわいいお兄さんであります。
きついのに、寒いのに、毎年出たくなるのは、やっぱりあそこでしか味わえない気分があるからだと思う。
あ、売り上げは全然たいしたことないですけど。
これは今年の2月の布多天神で、野外野菜炒めをしてるところ。 てんてん堂さんと。
おとといの布多天神では、今年初めてストーブを用意しました。
寒い季節になると、骨董市には練炭を用意して、暖をとる。
暖をとるだけじゃもったいないので、お餅やパンやソーセージを焼いて昼食にする。
で、ご近所さんと食したりします。
お餅だけだと野菜不足だなと思い、大きなフライパンを用意して野菜を炒めたりしだして、こういうことってだんだんエスカレートしてくるの。
あ、汁物もほしいなあ…と思ったところで、気づいた。
これって、公園の 「炊き出し」 にどんどん近づいてる…。
野外バーテンダー、アーバンさんは、リキュール入りのコーヒーをご馳走してくれた。
(彼は早朝に「ブラディ・マリー」を作ってくれたこともある。 しかもおしゃれなことに、いついかなる時でもちゃんとしたステム付きのグラスでなのです。)
練炭は昔はどこのホームセンターでも買えたのに、一時期練炭自殺が流行ってから、近所のホームセンターでは買えなくなった。
(売ってるのは継ぎ足しが必要な豆炭というやつ。)
で、かなり遠出をして買いに行くのです。
最近は、練炭連続殺人事件というのもあって、ますます買えなくなるかと思うとゆううつです。
また、冬になってから買いに行くと 「シーズンオフだから、ない」 って、わけわかんないことを言われたりする。(レジャーシーズンじゃないから?)
冬の野外労働者のことは全く考えてくれてないね。
明日からの世田谷ボロ市も、これで乗り切ります。
「現代美術的視点からの骨董」(よくわからないのだけど、平たく言えば、アート的にかっこいい、ということ? アートとコラボ出来る骨董?)、「自己表現としてのモノ選び」 と言う、若い同業者U君。
「表現、なんて目の前にぶらさげるもんじゃなくて、結果として後ろのほうに勝手にこぼれ落ちていくもの。」 と、私。
彼、「いつも表現を意識してないと、(周囲の人に)かき消されそうで。」
とも言っていたっけ。
(ぜぇーったい、そんなことないんだよ!)
若いって、何かにつけ理由づけが必要らしい…。
でも私は絵に打ち込んでた若い頃だって、絶対自己表現という言葉は使わなかったな。 うさんくさい言葉だと思ってたな。
この業界、百人いれば百通りの、やり方がある。
「生活のための仕事は別にある」 とか、「生活支援がある」 とか、「年金収入がある」 とか、「もともとお金持ち」 とか、「二代目」 とか、バックグラウンドだっていろいろなのだ。
(なんの参考にもなりゃしないので、経営参考物件から除外している。)
生活を成り立たせるための仕事なら、「表現」 とはあさっての方のことばだ、と思う。
というか、「期せずしていやおうなく出来てしまうもの。だから無自覚でいていいもの。」 だと思います。
「自己表現」 と 「自分探し」 って、なんとなく似てるね。
ろくなもん見つけないから、探さないほうが身のためだよ…。
「もの思ふ青年」N君が、以前、(この仕事に関して)「悩まないですか?」 ときいてきた。
「…今は悩まないなあ。」 と答えながら、昔ジャズ喫茶経営時代の終盤は、おおいに悩んでたことを思い出した。
自分が感動的な演奏をしたわけじゃないのに、レコードをただかけるだけなのに、ね、いいでしょ?と客に無言の圧力。 何をエラソーに、と思ったのだった。 へんな商売だよなあ、って。
「桶屋が桶を売るように」(谷川雁)、「八百屋が野菜を売るように」 明快な商売をしたい、と思った。
ので、コーヒーを売ってるのだと思うことにした。
今は、八百屋が野菜を売るように仕事が出来てると思っているので、悩まないのだ。
なんせ、仕入れ値や経費という、自分の思い入れだけじゃない、明快な基準があるのだもの。
私は虚業じゃなくて実業がしたかったのだった。
「表現」 なんて言葉にかかわると、せっかくの(もうかってないけどそれでも。) 実業が…。
「表現、なんて目の前にぶらさげるもんじゃなくて、結果として後ろのほうに勝手にこぼれ落ちていくもの。」 と、私。
彼、「いつも表現を意識してないと、(周囲の人に)かき消されそうで。」
とも言っていたっけ。
(ぜぇーったい、そんなことないんだよ!)
若いって、何かにつけ理由づけが必要らしい…。
でも私は絵に打ち込んでた若い頃だって、絶対自己表現という言葉は使わなかったな。 うさんくさい言葉だと思ってたな。
この業界、百人いれば百通りの、やり方がある。
「生活のための仕事は別にある」 とか、「生活支援がある」 とか、「年金収入がある」 とか、「もともとお金持ち」 とか、「二代目」 とか、バックグラウンドだっていろいろなのだ。
(なんの参考にもなりゃしないので、経営参考物件から除外している。)
生活を成り立たせるための仕事なら、「表現」 とはあさっての方のことばだ、と思う。
というか、「期せずしていやおうなく出来てしまうもの。だから無自覚でいていいもの。」 だと思います。
「自己表現」 と 「自分探し」 って、なんとなく似てるね。
ろくなもん見つけないから、探さないほうが身のためだよ…。
「もの思ふ青年」N君が、以前、(この仕事に関して)「悩まないですか?」 ときいてきた。
「…今は悩まないなあ。」 と答えながら、昔ジャズ喫茶経営時代の終盤は、おおいに悩んでたことを思い出した。
自分が感動的な演奏をしたわけじゃないのに、レコードをただかけるだけなのに、ね、いいでしょ?と客に無言の圧力。 何をエラソーに、と思ったのだった。 へんな商売だよなあ、って。
「桶屋が桶を売るように」(谷川雁)、「八百屋が野菜を売るように」 明快な商売をしたい、と思った。
ので、コーヒーを売ってるのだと思うことにした。
今は、八百屋が野菜を売るように仕事が出来てると思っているので、悩まないのだ。
なんせ、仕入れ値や経費という、自分の思い入れだけじゃない、明快な基準があるのだもの。
私は虚業じゃなくて実業がしたかったのだった。
「表現」 なんて言葉にかかわると、せっかくの(もうかってないけどそれでも。) 実業が…。
いらしていただいたお客さま、お買い上げいただいたお客さま、ありがとうございました。
ふだん古道具になじみのない方なども、「ビビッときて」 お買い上げいただいたときは、古いものとの出会いを仲介できたことをとてもうれしく思いました。
出店業者のみなさま、たいへんお世話になりました。 お疲れ様でございました。
イベントへの出店は、ほぼマンネリの日常(骨董市、店、市場などもふくめ) にうずもれてる身にはとてもよい刺激になります。
そして、すごくたくさん、考えさせられます。
モノについて、ハグチについて、仕事について…。
元来 「ヒトにもまれる」 ということが好きなんだと思います。
いろいろな方のお店を見て、いろいろなお話を伺って、最後は結局、「自分は自分」 になっちゃうのは目に見えてるのですけど。
「どうしようもなく自分は自分」 と思うのは決して 「自信」 じゃなくて、「あきらめ」 のニュアンスであります。
目黒までの長いドライブは 「ちこれ」 さんが同乗してくれたのですけど、最終日の夜、疲労と空腹と寒さにくわえて、すいている夜道を怪談話をしながら (本当にあった怖い話のたぐい…) 帰ったので、だんだん二人とも 「こわー!」 「やめましょう!」 となり、おおいに盛り下がった(?)ドライブとなったのでした。