露地裏骨董。 気になる商品がございましたら、「商品の問い合わせ」欄からご連絡ください。詳細説明、追加写真などをお送りします。 国分寺市本町2-25-15 ℡ 090-1400-7141 12:00〜20:00(日曜13:00〜19:00)
ブラジル・ソウルという分類になっているらしい、セウ・ジョルジ。
ずっとひいきにしてCD買ってきたけど、実はどれも釈然としない出来だと思っている。
微妙なニュアンスが歌い分けられてないし、サビはがなりたててるだけ。
応援したいのに…。
彼は、出演した映画「シテイ・オブ・ゴッド」の子供達さながらの、ストリートチルドレンだった。(だからひいきにしてるというわけじゃないけど。)
でも先にCDを聴いてから観た「ライフ・アクアティック」は、大々好きな映画になりました。
幻のサメを追っている「チーム・ザズー」のクルーが主人公。
ひそかに、大事に、愛でてるとてもチャーミングな映画です。
でも、誰にもおすすめできる映画じゃない。
とぼけた映画なのです。
生き別れの父子の対面が全然もりあがってないこと、
海洋生物の造型がみんなかわいらしいこと、
潜水艦内部の輪切りが面白いこと、
見張り番なのにギターを弾いて歌ばかり歌ってるセウ・ジョルジ。(なぜか全部デビット・ボウイのカバー。)
海賊がちゃんとシマシマを着てること、
赤いニット帽とポロシャツとねまきがかわいいクルーの制服。
ああ、書き連ねていくとどんどんネタバレになっちゃうな。
こういう細部を面白がれる人たちには、絶対お勧めです。
ゆるい、とぼけた映画ですが、ラストにちゃんとクライマックスと感動が用意されてる。
メイキング映像てみた監督のウェス・アンダーソンご本人も、とぼけていてかつチャーミングな人だった。
この映画を観てから、私も赤いニット帽がほしくなりました。
電車のなかでたまたま赤いニット帽の人を見かけると、もしやこの人も?と思ってしまう。
娘Mは就活時期に、「チーム・ザズーみたいなとこで働きたい…。」とぼやいていた。
ないです、そんなとこ。
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二ヶ月くらい前のことでした。
阿部薫(as)のファンの知り合いの男性(40代)から、ひさびさの電話があった。
いろいろ話しているうち、「あなたの昔の文章が、引用じゃなくてほかの人の名前で出版物に載ってたのを見たことがある。」と言う。
聞いて、ふーん、と思った。
聞けば昔「阿部薫覚書」という本で、鈴木いづみさんの文の転載許可が得られなかったため、私が急きょいづみさんの文をめいっぱい引用して、ペンネームを使って書いた章、のことらしい。
なぜペンネームにしたかというと、他の章でもう本名で書いてしまっていたので、しつこいだろう、と思ったから。
あわただしく書いた文で、しかも巻頭だから「全部宣伝コピー」みたいなつもりだった。
ウソは書かなかったけど、クサい文のオンパレードだ。
あんなんでいいのか、とまず思った。
いや、そういう問題じゃないね。
ペンネーム文に著作権があるかどうかもよくわからないし、権利を侵害されたのは私じゃなくて版元かもしれないし、彼が目にしたものもいつ出たのかわからないし(また名前変えて出したと思ったらしい)、「いいよ、べつに。」と言って電話を切った。
でも、なんか、ちょっと釈然としない気分になってきたんだな。
無断引用、ならまだしも。(ただ私はその「出版物」は見てないので何ともいえない。)
古い話ならもうどうでもいいけど、最近とかこれからとかなら、結構いやだ。
でこの際、事実関係を一度だけ書いとこうかなあと思いました。
版元ランダムスケッチの「阿部薫覚書」という本は、当時「一人出版社」をやっていた友人の大島彰さんが出資して作った本です。
そもそも私が企画を持ちかけたので、(出版社としていい仕事になるから!とか言って。)原稿集め、インタビュー、そのテープ起こしなど実務を手伝った。
つまり計二名で作った本でした。
五木寛之さんの文の一部を帯にしたかったのでお願いした結果、氏のおかげでテレビで特集番組が作られたりしたけど、とにかく、初版二千部のささやかな本である。
(あれ?二千というのは、CDのほうの数字かな。千五百だったか?)
私は企画にのせてしまった責任上、彼が赤字を抱えなくてすんだ、ということだけでほっとしたもんでした。
その後、彼が文遊社に版権を売って、装い新たに出たのが「阿部薫1949ー1978」という本。これは今も店頭にあると思う。
そのときに、ある方々の文が消え、新しい方々の文が増えたりした。
私のペンネーム文もそのとき消えた。
だから、消えた文を使われても誰にもわからないのです。
どう考えたらいいのかなあ。
言葉や文章って、引用→引用→微変化→引用→また変化、って、伝言ゲームみたいに伝わって、最後は、読み人知らず、になっちゃうものかも知れない、とも思うし、ね。
ほら、と証拠だすことも出来るけど、古い話でその出版物もたぶんもうないだろうし、ここにこのくらい事情書いたことで、もう考えるのやめようっと…。
例えば、文章プロの方もやってるに違いないブログの文章って、どうなってるんでしょうね。
仮名だと著作権ないのかな。写真やイラストは?
なんか、古くて新しい問題かもしれないですね。
阿部薫(as)のファンの知り合いの男性(40代)から、ひさびさの電話があった。
いろいろ話しているうち、「あなたの昔の文章が、引用じゃなくてほかの人の名前で出版物に載ってたのを見たことがある。」と言う。
聞いて、ふーん、と思った。
聞けば昔「阿部薫覚書」という本で、鈴木いづみさんの文の転載許可が得られなかったため、私が急きょいづみさんの文をめいっぱい引用して、ペンネームを使って書いた章、のことらしい。
なぜペンネームにしたかというと、他の章でもう本名で書いてしまっていたので、しつこいだろう、と思ったから。
あわただしく書いた文で、しかも巻頭だから「全部宣伝コピー」みたいなつもりだった。
ウソは書かなかったけど、クサい文のオンパレードだ。
あんなんでいいのか、とまず思った。
いや、そういう問題じゃないね。
ペンネーム文に著作権があるかどうかもよくわからないし、権利を侵害されたのは私じゃなくて版元かもしれないし、彼が目にしたものもいつ出たのかわからないし(また名前変えて出したと思ったらしい)、「いいよ、べつに。」と言って電話を切った。
でも、なんか、ちょっと釈然としない気分になってきたんだな。
無断引用、ならまだしも。(ただ私はその「出版物」は見てないので何ともいえない。)
古い話ならもうどうでもいいけど、最近とかこれからとかなら、結構いやだ。
でこの際、事実関係を一度だけ書いとこうかなあと思いました。
版元ランダムスケッチの「阿部薫覚書」という本は、当時「一人出版社」をやっていた友人の大島彰さんが出資して作った本です。
そもそも私が企画を持ちかけたので、(出版社としていい仕事になるから!とか言って。)原稿集め、インタビュー、そのテープ起こしなど実務を手伝った。
つまり計二名で作った本でした。
五木寛之さんの文の一部を帯にしたかったのでお願いした結果、氏のおかげでテレビで特集番組が作られたりしたけど、とにかく、初版二千部のささやかな本である。
(あれ?二千というのは、CDのほうの数字かな。千五百だったか?)
私は企画にのせてしまった責任上、彼が赤字を抱えなくてすんだ、ということだけでほっとしたもんでした。
その後、彼が文遊社に版権を売って、装い新たに出たのが「阿部薫1949ー1978」という本。これは今も店頭にあると思う。
そのときに、ある方々の文が消え、新しい方々の文が増えたりした。
私のペンネーム文もそのとき消えた。
だから、消えた文を使われても誰にもわからないのです。
どう考えたらいいのかなあ。
言葉や文章って、引用→引用→微変化→引用→また変化、って、伝言ゲームみたいに伝わって、最後は、読み人知らず、になっちゃうものかも知れない、とも思うし、ね。
ほら、と証拠だすことも出来るけど、古い話でその出版物もたぶんもうないだろうし、ここにこのくらい事情書いたことで、もう考えるのやめようっと…。
例えば、文章プロの方もやってるに違いないブログの文章って、どうなってるんでしょうね。
仮名だと著作権ないのかな。写真やイラストは?
なんか、古くて新しい問題かもしれないですね。
昨日の山崎幹夫さんのブログ名、「山崎幹夫の情報センサー」と書いたのは、正しくは「山崎幹夫の各種センサー」でした。
ごめんなさい。
浅川マキさんが亡くなった。
清志郎の場合は、まだ早い、と思ったけど、マキさんは、よく今まで生きたなあ、と思う。
自分のことを、よく今まで生きてしまったよな、と思うのと同じように。
上京したばかりの学生時代、私は四畳半のアパートに、小さなポータブルプレイヤーと、たった一枚のレコードを持っていた。
「浅川マキの世界」。
彼女の声は暗く、私も暗く、部屋も暗く寒かったけど、寺山修司の演出が、それらをメルヘンに仕立てあげてくれていたので、やっていけた。
彼女の世界では、娼婦も殺す男もロマンになる。
私はちょうど、暗さやデカダンスや偽悪性は、「誠実さの方法」と思っていたお年頃。
限りなく自分の中に降りて降りまくって、それを支えにやっと毎日世の中に打って出ることが出来た。
この心情は、あまり一般的じゃないと思う。
今あの頃に戻りたいかと言われれば、まっぴらです!と答える。
でも太宰治も書いている。「人は、暗いうちは滅びない。
明るいのが滅びの姿だ。」と。
(私はこの言葉でいつも、みんなハイだったバブル期の人の暮らしぶりを思い出してしまう。)
生きながら滅んでいる」ということも、あるのだ。
彼女も、つねに先のない人だった。
だから、よく生きたなあ、と思う。
「たいへん、お疲れさまでした。」としか言えないな…。
ごめんなさい。
浅川マキさんが亡くなった。
清志郎の場合は、まだ早い、と思ったけど、マキさんは、よく今まで生きたなあ、と思う。
自分のことを、よく今まで生きてしまったよな、と思うのと同じように。
上京したばかりの学生時代、私は四畳半のアパートに、小さなポータブルプレイヤーと、たった一枚のレコードを持っていた。
「浅川マキの世界」。
彼女の声は暗く、私も暗く、部屋も暗く寒かったけど、寺山修司の演出が、それらをメルヘンに仕立てあげてくれていたので、やっていけた。
彼女の世界では、娼婦も殺す男もロマンになる。
私はちょうど、暗さやデカダンスや偽悪性は、「誠実さの方法」と思っていたお年頃。
限りなく自分の中に降りて降りまくって、それを支えにやっと毎日世の中に打って出ることが出来た。
この心情は、あまり一般的じゃないと思う。
今あの頃に戻りたいかと言われれば、まっぴらです!と答える。
でも太宰治も書いている。「人は、暗いうちは滅びない。
明るいのが滅びの姿だ。」と。
(私はこの言葉でいつも、みんなハイだったバブル期の人の暮らしぶりを思い出してしまう。)
生きながら滅んでいる」ということも、あるのだ。
彼女も、つねに先のない人だった。
だから、よく生きたなあ、と思う。
「たいへん、お疲れさまでした。」としか言えないな…。
バイトしていたジャズ喫茶「ありんこ」 は、硬派なジャズばかりでなく、当時新譜で出回り始めたCTIレーベルもかけていて、どれもかなりの人気盤だった。
いわゆるコマーシャル路線です。
そのレーベルが最近リマスターされて店頭に出ていたので、なつかしさのあまり買ってみました。
(自分の店では硬派の常連客さんがこわくて、かけませんでした。自分でも「 所詮イージーリスニングだし。」 という偏見があったかも。)
確かにプロデューサー、クリード・テイラーのねらいは、コマーシャリズムだったんだと思う。「幅広い層に受け入れられるジャズを」とはそういうことです。
で、今聴いてみると、おお、立派な王道ジャズじゃないの!
若いF・ハバードは、音は生き生きしていても力あまってたれ流し、構成だいなし、的な演奏が多くかったのですが、この中では音の生きのよさに加えて、程よく抑制がきいている。
サイドメンのジョー・ヘンダーソン(ts)、ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、レニー・ホワイト(ds)、皆ともにでしゃばらず、過不足ない演奏。
この「抑制がきいてる」というところが、「パワフルで スポンティニアスなのがジャズだ!」とそれこそ力あまってたジャズファンに、蔑視される原因だったのでしょう。
今聴くと十分に「スポンティニアス」に聴こえるけどな。
これがイージーリスニングというなら、その後のフュージョンのほとんど、またアコースティックってだけでスカスカでも王道ジャズとして通用している新録のジャズなどは、何なんだ、と思ってしまう。
ライナーノーツで村井康司さんが、「ドイツのECMレーベルがCTIを高踏化したようなコンセプトでのレコード制作を開始した」と書かれていて、ほんとにそうだと思いました。 本質は同じような気がしてました。
ともあれこのCD。くたびれたジャズファンも、ジャズなんか興味ない若者も楽しめるんじゃないかなあ。
最終日の一日前に駆け込みで観にいった。
なんて久しぶりの芝居だろう!
最後に見たのは、80年代の、風の旅団。
80年代以降の、第三世代といわれてる劇団は、何も観ていない。
70年代の演劇団、天井桟敷、曲馬館、状況劇場などを観ていたので、それらを越える体験は出来ないだろう、と思っていたから…。
今回は、でも、観たかったのだ。 (「田園に死す」だし。)
で、見終わって、一番最初に思ったこと。
「うすい…。」
時代だよ、と言ってしまえばそれまでだけど。
あえて、言わせていただきます…。
役者の動きの(=情念の)、過剰さが、ない。
舞台美術の過剰さが、ない。
言葉の過剰さが、ない。
観客を異界のはるか遠くまで連れ去ってくれる、力ずくさが、ない。
「全裸に赤い腰巻き一つ」で、何かが憑依したように演技する女が、いない。(これは別に、いつもいなければいけないというものじゃない)
観客への挑発が、ない。
「いわゆる河原乞食」の特権が、ない。
また同時に、合わせ鏡のような、観客の 「切実な、観念の飢え」 が、ない。
これは、誰のせいでもないのだ。(誰のせいでもないから、時代性というのだろう…。)
むしろ昔のほうが、技術的には未熟だったと思うし、そんな「嵐が吹き荒れる」 みたいなほうが、いい時代だったというわけでもないし。
だから、リアルタイムでその「過剰な文化」 をしらない人たちに、何かを言いたいのではない。
いったい私は、今回、何を欲して行ったのだろう…? とだけ、思ったのだ。
過去に、飢えを満たされた記憶があるならば、それでいいのではないか?
たぶん、演劇でなくても、なんの世界でもいいのだ。
時代の「うすさ」に関係なく、「過剰な表現」 と、それを欲情する飢えた人たちとの、現場が、いつの世も、あるに違いない、と思いたかったのだ。
そういう種類の人間は、いつの時代でも、いる、と…。
それが、今回は、感じることができなくて、さみしくなっただけです…。
なんて久しぶりの芝居だろう!
最後に見たのは、80年代の、風の旅団。
80年代以降の、第三世代といわれてる劇団は、何も観ていない。
70年代の演劇団、天井桟敷、曲馬館、状況劇場などを観ていたので、それらを越える体験は出来ないだろう、と思っていたから…。
今回は、でも、観たかったのだ。 (「田園に死す」だし。)
で、見終わって、一番最初に思ったこと。
「うすい…。」
時代だよ、と言ってしまえばそれまでだけど。
あえて、言わせていただきます…。
役者の動きの(=情念の)、過剰さが、ない。
舞台美術の過剰さが、ない。
言葉の過剰さが、ない。
観客を異界のはるか遠くまで連れ去ってくれる、力ずくさが、ない。
「全裸に赤い腰巻き一つ」で、何かが憑依したように演技する女が、いない。(これは別に、いつもいなければいけないというものじゃない)
観客への挑発が、ない。
「いわゆる河原乞食」の特権が、ない。
また同時に、合わせ鏡のような、観客の 「切実な、観念の飢え」 が、ない。
これは、誰のせいでもないのだ。(誰のせいでもないから、時代性というのだろう…。)
むしろ昔のほうが、技術的には未熟だったと思うし、そんな「嵐が吹き荒れる」 みたいなほうが、いい時代だったというわけでもないし。
だから、リアルタイムでその「過剰な文化」 をしらない人たちに、何かを言いたいのではない。
いったい私は、今回、何を欲して行ったのだろう…? とだけ、思ったのだ。
過去に、飢えを満たされた記憶があるならば、それでいいのではないか?
たぶん、演劇でなくても、なんの世界でもいいのだ。
時代の「うすさ」に関係なく、「過剰な表現」 と、それを欲情する飢えた人たちとの、現場が、いつの世も、あるに違いない、と思いたかったのだ。
そういう種類の人間は、いつの時代でも、いる、と…。
それが、今回は、感じることができなくて、さみしくなっただけです…。